引退後レスラー

ミスター・ポーゴの逸話や死因とは?試合動画や入場曲!鎌や店とは?

プロレスファンの皆さん、こんにちは。

今回は、日本の悪役最凶プロレスラー
ともいわれていたミスター・ポーゴ
んについてご紹介していきましょう。

ミスター・ポーゴの足跡について


まずは、プロフィールからご紹介しま
す。

  • 本名:関川哲夫
  • 身長:185㎝
  • 体重:130㎏
  • 生年月日:1951年2月5日
  • 死亡日:2017年6月23日(66歳没)
  • 出身地:群馬県伊勢崎市
  • スポーツ歴:大相撲・柔道
  • デビュー日:1972年3月20日

ポーゴさんは、小学校の頃から体格に
も恵まれて、3年生から柔道を習って
いました。

そして、高校から中央大学にスポーツ
推薦で進学することができました。

同期には、スポーツのジャンルは違い
ますが、ジャンボ鶴田さんと同期に当
たります。

大学に入学したのですが、勉学と柔道
部の厳しい練習についていくことがで
きずにいたのとそこに追い打ちをかけ
るようにお父様が急逝したことによる
ショックも重なって1年生の時に中退
してしまいます。

お父様は、群馬県議会議員を6期務めて、
議長も務められた地元の雄ともいわれる
ような方でしたので、後援者も多くいま
した。

その講演者の紹介で大相撲の二所ノ関部
屋に入門をすることになり、関川のしこ
名で初土俵を踏むことになります。

2場所目で序の口優勝をするほどの実力
であったのですが、ひざを故障して廃業
することになり、その後プロレスを志す
ようになりました。

グラン浜田さんとは中学の同級生だった
のですが、その浜田さんと旗揚げ目前の
新日本プロレスに出向き、入門をお願い
したのですが、当時は選手の人数が足り
ていなかったことも重なり、入門を即時
に許されてデビューを果たします。

しかし、デビューして1シリーズで知ら
ないうちに解雇されてしまい退団に追い
込まれてしまいました。

その後、単身渡米してリック・フレアー、
ザ・ファンクス、ダスティ・ローデス、
ハリー・レイスなどと構想を繰り広げて
いて、特にハリー・レイスとは金網デス
マッチで決着戦を行うなどの活躍を見せ
ていました。

その時のリングネームはミスター・セキ
だったのですが、途中ミスター・トーゴ
ー(TOGO)に改名したのですが、
対戦表にミスター・ポーゴ(POGO)
と誤記されていて、この時のプロモータ
ーであったテリー・ファンクに抗議をし
たのですが、「俺がこのネームを命名し
た」と言い張ったことでこのリングネー
ムになったといいます。

このような活躍が認められて、国際プ
ロレスや古巣の新日本プロレスに参戦
もしていました。

国際プロレスの時は130㎏の巨漢
だったのですが、新日本に上がってい
たときには大きくスリムになっていま
した。

1988年、ブルーザー・ブロディ
さんの刺殺事件をきっかけに、プエル
トリコでのプロレス自体が信用失墜か
ら人気も下がって興行数の激減から帰
国せざるを得なくなり、地元の工場で
働いていたこともあります。

1990年、大仁田厚さんの誘いを受け
FMWに参戦し、国内での戦いが再び
始まるのですが、翌年には、FMWの
分裂騒動からW★INGに移籍して
松永光弘さんら若手を引き連れ過激
なデスマッチ路線を進めていき、
このころから火炎噴射を使いだして
いました。

ただ、1993年には再びFMWに戻
り、火炎噴射に加え、チェーンなど
を使う凶器攻撃を使いながらの攻撃
に磨きもかかっていきます。

しかし、その後も団体の分裂などで
選手の出入りが激しくなってポーゴ
さんもその渦に巻き込まれることに
もなるのですが、大仁田さんが引退
してしまうと、「大仁田以上に燃え
ることができる相手がいない」とい
うことで、フリー宣言をし多くのイ
ンディー団体を渡りあることになっ
てしまいました。

そして、2000年自身がサウナ店に
勤務していた埼玉県本庄市に地元密
着型プロレスWWSを旗揚げしてので
すが、徐々に出場の機会も減ってい
く中でも現役を貫いていたのです。

晩年のミスター・ポーゴは?死の原因とは?


2003年にはお父様の影響なのか、
伊勢崎市議会議員選挙に立候補して
落選してしまいました。

その後は、2005年リニューアル
もしながら飲食店を経営するように
もなりました。

しかし、痛風を持つようになって、
鎮痛剤を空腹時に大量服用したこと
から出血性胃潰瘍になり入院を余儀
なくされたりもありました。

その後もプロレスラーとして出場機
会は少ないものの、プロレスラーと
しても活動は続けていきます。

2017年には、腰のケガを治すため
手術を受けるるため全身麻酔をかけ
ている最中に不整脈により血圧が低
下し、脳梗塞を発症して病院で亡く
なってしまいました。

ミスター・ポーゴの逸話とは?


本庄市内のサウナ店はスポーツジム
も兼ねていて、実はここでは雇われ
店長として働いていましたので、自
分で経営していたわけではありませ
ん。

お寿司が大好きで、ポーゴ寿司を開
店させようともくろんでいたことも
ありました。

ヒクソングレーシーと戦いたいと豪
語しており、作戦は「ヒクソンが疲
れてきたところに火炎放射を仕掛け
る」というものでした。

この他にもいろいろな逸話を持って
いるポーゴさんです。

ミスター・ポーゴの試合映像や入場曲は?


では試合映像から見ていただきます。

1995年5月4日
愛知県武道館
世界ブラスナックル選手権試合
ノーロープ有刺鉄線バリケードマット
ダブルヘルデスマッチ

1995年3月30日
横浜文化会館
ポーゴ大王 VS グレート・ニタ
ノーロープ有刺鉄線ランバージャッ
クバリケード ダブルヘルデスマッチ

入場曲は、「Get Up」です。

まとめ


今回は、ミスターポーゴさんをご紹介し
ました。

もうお亡くなりになって、2年余りがた
ちます。

ポーゴさんもまた皆さんに戦う姿を見せ
たいがために手術に踏み切っていただけ
に本当に一番悔しさを覚えているのはポ
ーゴさん自身ではないでしょうか?

今は、ポーゴさんらの活躍で、プロレス
の中にもデスマッチというジャンルが確
されてきました。

ポーゴさんの遺志を忘れずに、これから
もデスマッチ路線はしっかりと後輩の皆
さんが守っていってもらいたいですね。